村崎百郎

年末に買った本

村崎百郎の本

村崎百郎の本

村崎さんの創作「パープルナイト」だけは未読。
鬼畜ブームの96年頃。
「人生解毒墓場」と「鬼畜のススメ」を友人に借りたけれど
「鬼畜のススメ」は当時こわくて読めなかった。

いま、猛烈に読みたいが、一万円とは・・・。



とくに雑誌「imago」に書かれた文がひじょうに心にドスンとくる。

他人から「良い人」に見られたい、他人から誉められたい、他人から尊敬されたい、他人に馬鹿にされたくない……そんな心がびくびくした優等生的思考と行動を生み、病んだ心を育ててしまうのだ。

と書きながら、

かくいう俺も昔はある程度他人の目を気にしていきてきたが、

と読者の視点にスッとおりてきて、ただ上から目線で見るのでなく、さりげなくいつの間にか、読者に近づいて寄り添ってきてくれる。村崎さんの文章はそこが魅力だなぁ。

自分の行動を制約しなければならないほど他人の目を気にする根拠も必要もどこにもないことに気がついて愕然としたものだ。


そうなんです。他人から「いい子」と思われたいけど、その「他人」という妖怪(村崎氏は「幽霊」と表現)のようなものが黒く、大きなものに、自分の目には写ってしまって。
でもそんな「よくわからないもの」はない、と「気がつ」かないとその妖怪(幽霊)の恐怖からは逃れられないんだろうな。
それも自分で「気がつく」体験をしないとだめなんだろうな。

いいんだよ、他人なんか傷つけたってさ。向こうも傷つきたくなけりゃ必死で抵抗するだろう。闘争はいつだって生存の条件だ。
それよりも自分自身の欲望に徹底的に向き合って、自分が本当に何をやりたいのか考えてみろよ。全てのつまらん見栄と体裁を取り去ったところできみが欲望するのは一体何なのか、ゆっくりと考えてみろ。そしていつかそれが何か分かったら、手段を選ばずなりふりかまわずそれを目指せよ。(ただし常に自分をとりまく包括的な全体を考えながらね)。


最後の()の言葉からわかるよう、「独りよがりでなく、他人から見た自分も想像して、見渡してから、やりたいことを行動しようね」と村崎さんの文章には優しさがひそんでいます。

京極夏彦の「ダ・ヴィンチ」特集号に寄稿している文章でも同じような内容の文を寄せられていたもよう。(「村崎百郎の本」の京極夏彦インタビューの脚注によれば)
図書館で探さねば!

きっと村崎さんは誰もが持ってる、「自分のなかのもう一人の自分(自分の本能的部分というか非社会的な自分?)」の「やりたいこと」を「ゆっくり」 でいいから、必死になって見つけようよ、と、ご自分へも、読者へも問いかけていたのでしょう。

「誰の中にもキチガイ村崎百郎)は存在する。」
「安定のために薬を飲むより、苦痛を感じながらでも思考していたいと願う」(要約)

とも書かれています。

なにかわからない不安なものに、「精神病」と名前をつけて、安心させている自分がいます。
わたし自身も、病名に頼ってすがって、「病んでる」の一言ですましてしまう。

でもそんな自分のこころのなかの「黒い箱」にフタをせずに、苦しくてもそれを受け入れ、受け止め、「考えること」を選ぶ強さを持とう!という村崎さんの姿勢は、今でも褪せてないし、今だから響いてきます。

ドラマ「すいか」で絆さんが「自分のやりたいことくらい、死ぬ気で考えて探しなさいよ!」と男子に怒るセリフがあり、迷いが生じたときによく思い出すセリフだけど。

村崎さんも 同じことを言ってたんだなぁ。